広島県 高校部活動 / 学校プロフィール
国泰寺高等学校 部活動情報・競技別ページ
基本情報
| 学校名 | 国泰寺高等学校 |
|---|---|
| 都道府県 | 広島県 |
| 地区 | 広島市地区 |
| 設置区分 | 公立 |
学校基本データ
| 創立年 | 1874年 |
|---|---|
| 設置者 | 広島県 |
| 共学・別学 | 男女共学 |
| 課程 | 全日制課程 |
| 学科 | 普通科 |
| 所在地 | 広島県広島市中区国泰寺町一丁目2番49号 |
| Wikipedia | リンク |
学校補足情報の一部は Wikipedia「広島県立広島国泰寺高等学校」 を参照し、部活コンパスで要約・再構成しています。 取得日: 2026-05-02。 版ID: 108847769。 ライセンス: CC BY-SA 4.0。
Wikipediaの部活動欄より
- 野球部
- 全国の高校野球ファンにとって広島の高校野球といえば、広商・広陵であろうが、"野球王国広島"の最初の強豪は広島中であった。広商、広陵、修道中、明道中、崇徳中、呉中、尾商、忠海中、三次中など県内の中学は「打倒広島中学」に闘志を燃やした。朝日新聞社主催による全国中等野球大会は1915年(大正4年)からであるが、それまでは各地の旧制高校主催による近県大会が主に行われ、六高主催による近県大会が1907年(明治40年)から行われたが、広島中が第1回、2回と連覇した。1913年(大正2年)にハワイ中学が日本遠征で来日し、各地の強豪中学に全戦全勝の余勢を駆って、広島中と対戦したがハワイ中学に初黒星を付けさせた。
- 旧制中学(広島一中)時代の1915年(大正4年)の第1回全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会/夏の甲子園大会)に出場し、開幕戦で鳥取中学校と対戦した。
- この時の試合の詳細は不明だが、現在も続く試合開始前の挨拶を始め、多くの儀式やプレイが高校野球全国大会の“第1号”という事になる。現在も記録として残っているものとして、2005年(平成17年)までの通算1000本を超えた夏の大会の本塁打、その第1号が広島一中の中村隆元選手(ランニングホームラン)として残っている。ただし試合は大敗(7-14)であった。他にこの試合6番捕手として出場した田部武雄の兄・田部謙二が、試合中指を傷めて付近の病院に担ぎ込まれたため、これを切っ掛けに各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったという逸話もある。
- 高校野球史にもその名を残す学校だが、第2回以降1世紀以上、夏春通じてまったく全国大会の出場が無いことでも知られる。最近は2005年に広島県春季大会で準優勝するなど、奮戦はしている。
- サッカー部
- 旧制中学(広島一中)時代は、中等サッカー草創期からの強豪として知られた。多くの名選手を輩出したが、中でも野津謙と谷川昇を生んだことは日本のサッカーと日本の野球の戦後の発展に著しい貢献を果たした。1911年(明治44年)、サッカーを校技にしたいと考えた当時の弘瀬時治校長が東京高等師範学校の主将だった松本寛次を教諭に迎えて、1912年(大正元年)[https://www.kokutaiji-h.hiroshima-c.ed.jp/zen-club_shokai/club-soccer.html 校友会活動・部活動] 公式ウェブサイトに蹴球部が発足。当時のメンバーには後に日本サッカー協会会長となる野津謙らがいた。広島の旧制中等学校では広商、広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)と共に明治後期からサッカーが始められたが、広商は野球に押されてサッカーは立ち消えになり、熱狂のあまり観客の暴動など問題の多かった野球にかわり広島一中や附属中学ではサッカーが奨励され実力を付けていった、。
- 旧制中学(広島一中)時代は、中等サッカー草創期からの強豪として知られた。多くの名選手を輩出したが、中でも野津謙と谷川昇を生んだことは日本のサッカーと日本の野球の戦後の発展に著しい貢献を果たした。1911年(明治44年)、サッカーを校技にしたいと考えた当時の弘瀬時治校長が東京高等師範学校の主将だった松本寛次を教諭に迎えて、1912年(大正元年)[https://www.kokutaiji-h.hiroshima-c.ed.jp/zen-club_shokai/club-soccer.html 校友会活動・部活動] 公式ウェブサイトに蹴球部が発足。当時のメンバーには後に日本サッカー協会会長となる野津謙らがいた。広島の旧制中等学校では広商、広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)と共に明治後期からサッカーが始められたが、広商は野球に押されてサッカーは立ち消えになり、熱狂のあまり観客の暴動など問題の多かった野球にかわり広島一中や附属中学ではサッカーが奨励され実力を付けていった、。
- 1919年(大正8年)に似島のドイツ人捕虜チームと親善試合をした広島高等師範学校の主将だった田中敬孝が、翌年からサッカー部監督としてチームを指導。関西遠征でも互角以上の戦いをし、当時の日本代表チームにも勝つ程であった。また広島一中のOBチーム・鯉城蹴球団は1924年(大正13年)、1925年(大正14年)と明治神宮競技大会兼ア式蹴球全国優勝大会(天皇杯の前身)で二連覇の偉業を達成した。また広島一中も現在の全国高等学校サッカー選手権大会の前身・日本フットボール優勝大会が、実質の全国大会となり全国中等学校蹴球選手権大会と名称を変えた1926年(大正15年/昭和元年)の第9回大会に初出場すると決勝に進出。御影師範に敗れたものの1948年(昭和23年)までに優勝・準優勝を各3度果たすなど、前記の附属中学やのち台頭した修道中学(現修道高等学校)と広島の中等サッカーを引っ張り、また関西勢と共に草創期の日本の中等サッカーをも引っ張った。
- そういった事情もあり日本で最も権威有るサッカー大会、天皇杯全日本サッカー選手権大会が、1957年(昭和32年)の5月に、国泰寺高校のグラウンドで開催されたことがある。なお試合は、地元の期待を一身に集めた東洋工業(現・サンフレッチェ広島)が、決勝に進出するも中大クラブに惜敗している。サッカーが長い期間マイナースポーツで観客があまり入らなかったこと、また同校が市内中心部にあって交通の便がよかったこともあり、東洋工業はその他日本サッカーリーグ(JSL)などの公式戦も、しばしば同校グラウンドを使用した。
- バスケットボール部
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よくある質問
- Q. 国泰寺高校の競技別ページはありますか?
- サッカー・卓球・バドミントン の競技別ページを公開しています。
- Q. 国泰寺高校の公式情報はどこで確認できますか?
- 学校公式サイトはまだ登録されていません。確認できた公式情報から順次追加します。